〈人新世〉という新たな地質年代誕生の行方

〈人新世〉という新たな地質年代誕生の行方

執筆:教授 松浦勉

 21世紀のいま、新たな地質年代が国際社会で認知されようとしている。1万2000年ほど前にはじまった〈完新世The Holocene〉にかわって、〈人新世The Anthropocene〉の時代が始まるというのである。ヨコ文字を和製英語風にいえば、前者はホロシーンと読む。後者はアントロポセンと読み、「ひとしんせい」または、「じんしんせい」などと訳されている。新たな地質年代への「転換」がはじまるというのは、喜ばしいことであろうか。答えは否である。なぜか。〈人新世〉という言葉の誕生の経緯と、この用語の基礎となっている地球環境の現状認識(「診断」)を簡単に確認してみれば、了解できよう。

 2000年に突如広まることになったこの〈人新世〉という用語は、この年にメキシコで開催された地球環境をめぐる国際会議の場で、ノーベル化学賞受賞歴をもつドイツの大気科学者のパウル・クルッツェン(1933~2021)が発案したものである。すでに前例のない規模で進行していた気候変動は、安定した気候条件をもたらし、人間の可能性を開花させた従来の〈完新世〉の条件には、もはや当てはまらないことに気づいていたクルッツェンがこの会議の場で「即興で持ち出した」のが、この造語である。この言葉は、クルッツェンの予想をはるかに超えて、瞬く間に大きな反響を与えることになった。この用語はその後、科学界で承認されたばかりでなく、ほぼ10年かけて人文科学と社会科学の分野にも火をつけ、この20年代には、科学はもとより、芸術や社会、政治などの広範な領域に波及することが予測されている。

 世界的に著名な地球システム科学者として知られているストックホルム大学のヨハン・ロックストロームは、クルッツェンが大要以下のように認識していたと指摘する。現代世界における消費と生産の巨大な規模と速度、自然資源の過剰な搾取、大気と水、土壌などの環境システムの質と機能の劣化、生態系の破壊、そして地球規模の大量絶滅に匹敵する速度での生物種の絶滅などによって、人類は惑星地球の変化を引き起こす主役になった、というのである。そして、ロックストロームによれば、「人類の将来に地球的規模のリスクが迫っている」というこの結論は、その後に地球システム科学から地球のティッピングポイント(転換点・臨界点)に関するレジリエンス(回復力)研究、地球の遠い過去の歴史に関する古気候学研究まで、多くの学問分野での研究の進歩によってもたらされることになったのである。ここでいわれるレジリエンス(回復力)研究は、産業革命以来、人間が高度のテクノロジーを駆使して化石燃料由来のエネルギーを際限なく使用して「経済発展」を実現させた地球的な規模の経済活動が、資本主義と社会主義の体制の違いを超えて、現実には、その繫栄の基礎となっていた安定的でレジリエント(自己回復力のある)な地球システムを壊しつつあることを、例証している。

 こうした事情をふまえて、〈人新世〉という用語の固有の意味について、イギリスとアメリカの研究者集団は、以下のように説明している。

 

 この語は、「公害」や「気候変動」「地球温暖化」のような、環境破壊を示す用語とは異なる。ディープタイム〔超長期的な時間スパン〕と現在進行形の危機とを、そして科学的視点と人文学視座とを統合し、20世紀半ばから人類が地球上で圧倒的かつ決定的な影響力を持つに至ったことを説明する概念なのだ。

 

 最初の〈人新世〉という新たな地質年代の認知の問題に話をもどそう。厳格な手続きで守られている地質年代尺度(GTS)を研究する地質学のコミュニティーに設置された人新世ワーキング・グループは、協議を重ねて、2022年春には、十分なエビデンスを揃えて正式提案するといわれている。

 〈人新世〉の幕開けを正当に危惧する科学者たちは、「グローバル・コモンズの責任ある管理」(石井菜穂子)の必要を強く提唱している。つまり、人類の「文明」を支えてきた「安定的でレジリエントな地球システム」を、人類の共有財産(国際公共財)ととらえ、国境に閉じ込められた人類全体が、協調して責任をもって管理し、次世代に引き継がなければならないというのである。したがって、約30年前の地球サミット(「リオ会議」)段階まで考えられ、推奨されていた「地球的な規模で考え、それぞれの地域で行動する」という原則ではもはや不十分だというのが、かれ/かの女らの鋭利なメッセージである。これにかわって、どのような原則が新たにもとめられるのか。昨年はじめ以来の「コロナ禍」に対する根本的な対処方針ともいえる、もう一つの精神が提起されている。「誰も安全でない限り、誰も安全でない。」というのが、それである。

 こうしたグローバル・コモンズの精神を体現した新たな経済モデルやガバナンスを構築するためのとりくみや運動も、国際社会ではすでに胎動している。18世紀の第3四半期に発表されたカール・マルクスの未完の『資本論』を参照して、「グローバル・サウス」の視座から気候危機にある「人新世」における資本と社会と自然の絡み合いを分析した斎藤幸平の、「2021新書大賞」を受賞した『人新世の「資本論」』(集英社新書)は、その具体的な素材を提供してくれている。本書の表紙をみると、1987年生まれの斎藤は、「人新世」を、「人類が地球を破壊しつくす時代」と把握し、次のように結論的なメッセージを発信している。「気候変動、コロナ禍……。文明崩壊の危機。唯一の解決策は潤沢な脱成長経済だ。」と。〈人新世〉の幕開けが日本の社会科学の世界にどのような規模と広がりで波及しているかは、まだ判然としないが、〈人新世〉をタイトルに掲げた本書は、論争の書である。

 岩波書店が敗戦直後から刊行し、創刊75周年を迎えた総合雑誌『世界』の2021年5月号では「特集1 人新世とグローバル・コモンズ」として、地球環境の現状分析と国際公共財としての地球環境の保全と監視の担い手をめぐる特集が組まれている。筆者の知る限りにおいては、総合雑誌でこうした特集を組むのは、本誌『世界』が初めてかもしれない。本稿は、本誌に掲載された、翻訳論考を含めた諸論考を参照した。