科学者コミュニティーと政治

科学者コミュニティーと政治

執筆:教授 松浦勉

 国家権力(政府)と真理や真実を追究する学問との抗争とせめぎあいは、洋の東西を問わず、単なる過去の歴史の一齣ではない。これは21世紀のいまも、依然として古くて新しい問題である。この国家と学問の関係がいま改めて問われている。
 8月末に辞意表明を行った首相の安倍晋三の後継となった菅義偉首相が、日本学術会議が推薦した105名の新会員のうち、6名の会員の任命を拒否した事実が明らかにされたのは、10月1日のことである。6名はいずれも、学術会議第1部会への参加が予定されていた人文・社会科学を専攻する、総じてリベラルな研究者である。菅首相は当初、「任命権」を行使したまでで、人事に関する理由を説明する必要はないと公言していたが、その後、「総合的、俯瞰的観点」から判断したとか、「多様性」を重んじて云々と、明白な後知恵で、およそ理由にならない拒否理由を発表した。前者の「総合的、俯瞰的観点」の初出は、吉川弘之(学術会議元会長)によれば、1997年に科学者自身が「定義」し、「発信したもの」だという。この用語の問題については、29日付の朝日新聞「論壇時評」で、ジャーナリストの津田大輔も指摘している。
 日本学術会議は、多岐にわたる専門領域を超えた「優れた研究または業績」をもつ研究者のコミュニティーである。1983年の国会の場で、当時の中曽根康弘首相は同会議の推薦に基づいて、新会員を、「首相は形式的任命を行う」と答弁し、この任命方式が慣例となった。菅の口吻にもかかわらず、新政権は、1983年以来のこの「慣例」を専断的に破棄したのである。
 この政府の行為の持つ意味は重大である。たとえば、日本弁護士連合会は「憲法の根本原則である三権分立に関わる問題」と厳しく批判しているし、五野井郁夫(高千穂大学)は「法の支配」に対する挑戦と、指弾している。日弁連の声明を含めて、28日段階で、500の学協会が抗議声明を発表したといわれる(前掲、「論壇時評」)。
 「学者の国会」とも呼ばれてきた日本学術会議は、国家機関ではあっても、内閣法制局や会計検査院、日本銀行とならんで、政府からのきわめて強い独立性と自律性をもつ研究者コミュニティーである(「日本学術会議法」第3条)。研究者コミュニティーである学術会議は、その不可欠の責務の一環として、政策提言を行うだけでなく、政府の政策やその方針に対する批判もあえて提起する。批判精神はあらゆる学術研究の生命でもある。そのため、この独立性と自立性は、とくに1980年代以降、自民党政権のもとで政治的な介入をうけ、侵食されてきた。学術会議が安倍政権=防衛施設庁主導の軍事的安全保障研究に反対の意思を表明する「声明」を出して注目された2017年の前年から、政権が学術会議の会員人事に直接介入してきたことも、後日明らかになった。また、学術会議のじっさい的な機能も、自民党政権が設置・育成してきた「総合科学技術・イノベーション会議」や「科学技術・学術審議会」に移転させられているのである。
 その意味で、菅首相による学術会議新会員の任命拒否問題の本質は、決して政権サイドや一部マスコミが主張・喧伝するような、日本学術会議の組織問題などではない。科学者(集団)の自治を否定するこの首相の行為は、直接的には、国民の「学問の自由」(日本国憲法第23条)や「思想・良心の自由」(同19条)の帰趨に関わる重大な問題なのである。すでに、こうした国家機関の政府からの独立性・自律性を奪い取る政権運営の前例が、既成事実として積み重ねられているからである。日銀はもとより、マスコミ主流が「たたきあげの苦労人」などと忖度する菅首相が、第2次安倍政権の官房長官時代に、「法の番人」とも呼ばれる内閣法制局の独立性を形骸化させる長官人事を強引に実現させている事実を看過することはできない。2013年8月8日のことである。菅は、法制局長官に、政権にシンパシーをもつ元外交官僚を据える人事を強行し、同局の独立性を形骸化させたのである。官房長官として菅が政権中枢で強行した官僚統制とテレビ局をはじめとするメディアへの恫喝と介入など、その強権的・強圧的な所業はよく知られているところである。
 菅首相が「総裁」を務める自民党が立ち上げた「政策決定におけるアカデミアの役割に関する検討プロジェクトチーム」の座長となった塩谷立(元文科相)は、国民の利益と福祉を増進する学術研究に代えて、「政策のための科学」の意義と役割を強調している。「政策のための科学」は、当然<国家の安全保障>のための科学を標榜することになろう。「政策科学」としての学術研究が、国家総力戦となったアジア太平洋戦争期にも強力に追求された史実とその末路を想起する必要がある。
 また、政権サイドは、首相による任命拒否の正当性を弁証する根拠の一つとして、10億円余の公費支出の事実をあげているが、これを負担しているのは、「納税者」の国民である。科研費も同様である。したがって、学術会議はもとより、学術研究一般は〈人間の安全保障〉を核として、国民の共同の利益と福祉という本来の公益を増進することを第一義的に追求することをもとめられているといってよい。日本学術会議が政府への「答申」により、こうした課題を積極的に担ってきた事実は否定しようがない。ところが、いまやこれらは中心課題として期待されることなく、副次的な課題に貶められてしまったのである。そのための法整備はひとまず終了している。第201回通常国会の会期末の6月には、「科学技術基本法」に代わって「科学技術・イノベーション基本法」が成立しているのである。
 この点と関わって、任命を拒否された一人である加藤陽子(東京大学:歴史学専攻)は、今回の任命拒否について、以下のように大きな危惧を表明している(17日『毎日新聞』)。

 自然科学のみならず、人文・社会科学も、「資金を得る引き換えに政府の政策的な介入」を受ける事態が憂慮される……(。)……解決すべき重要課題を国家が新たに設定し、走り始めたことを意味しよう……(。)

 任命拒否を撤回させ、こうした危惧される新たな事態を回避・克服するには、どうすればよいのか。明るい材料は必ずしも存在しない。むしろ否定的な条件が既成事実となっている。たとえば、朝日新聞の「世論調査」の結果をみると、政権による任命除外は「妥当ではない」が36%で、「妥当だ」が32%と拮抗しているのである。学界その他の関係団体の気概と異議申し立てはもとより、「成熟した市民社会」の真価が問われている。