科学技術基本法「改正」の行へ

科学技術基本法「改正」の行へ

執筆:教授 松浦勉

 3月10日、安倍内閣は「科学技術基本法等の一部を改正する法律案」を閣議決定し、同日、会期中の第201回通常国会に上程した。とりわけここでは、数多の関連諸法は別にして、学術(研究)と学校教育、とりわけ高等教育のあり方にさらに大きな影響を与えることが予想される科学技術基本法の「改正」問題について、考えてみたい。議員立法としてこの法律が制定されたのは、四半世紀前の1995年のことである。「科学技術」(概念)から人文・社会科学の分野が排除され、自然科学系の主要4分野が「科学技術」のメインストリートに設定されることにより、日本の科学・技術政策は新たにスタートした。

 政府が「科学技術の振興」をはかるために5年ごとに「科学技術基本計画」を策定する根拠法となるこの法律が「改正」されるのは、実現すれば制定以来はじめてのことである。内閣府に設置された総合科学技術・イノベーション会議・基本計画専門調査会・制度課課題ワーキンググループは、この改正を方向性づける議論を積み重ねてきた。その成果となる報告書「科学技術・イノベーション創出の総合的な振興に向けた科学技術基本法等の在り方について」は、昨年11月20日に首相の安倍晋三に提出・公表されている。2014年5月に再編・設置された総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)の位置と裁量は、内閣府設置法第26条で規定されている。

 今回の改正の最大の眼目は、総合科学技術・イノベーション会議他の上記の「報告書」のタイトルが示唆するように、「科学技術の振興」とならんで、「イノベーション創出の振興」が目的に加えられたことである。法律の名称も「科学技術・イノベーション基本法」に改められ、計画は、「科学技術・イノベーション基本計画」となる。これは、改正法第2条第2項に「研究開発の成果の実用化によるイノベーションの創出」の振興施策が定められているように、科学技術基本法の本旨を改悪し、「科学技術の振興」の目的を「イノベーションの創出」のそれに従属させ、重点化をはかろうとするものである。この政策路線は、すでに第5期科学技術基本計画の策定(2016~20年)により敷設されていた。法改正によって総仕上げされるこのような路線は、日本の学術研究と教育に何をもたらすことになるのであろうか。

 「イノベーション」という用語に「誰も思いつかなかった組み合わせ」という意味を与えて使用し始めたのは経済学者のシュンペーターだという。しかし、CSTI(内閣府)が想定・主導するイノベーションの創出では、研究開発の成果の「実用化」を推し進めることが眼目とされている。そのため、日本経済を牽引する大企業中心の新たな基軸産業とそれを担う専門労働力の育成に重点が置かれることになろう。じっさい、3倍の6項目に拡充された第3条の振興方針には、一定の配慮・留保事項はあるものの、その第6項目には、3点にわたって国家的な政策課題が例示されているのである。国連が定めた17項目のSDGs(持続的開発目標)とは、大幅に背馳するものである。しかも、今回の法改正によって、これまで不当に排除・差別されていた人文・社会科学がひとまず法の対象として位置づけられることになる。つまり、日本の学術研究の成果がトータルに、この目的のために「動員」されることが懸念されるのである。

 加えて、「軍」・産・官・学の連携体制の構築がめざされていることも看過できない。たとえば、第5期科学技術基本計画のなかで、「研究開発の成果の実用化によるイノベーションの創出」の企画・立案だけが総合科学技術・イノベーション会議の基本テーマとされていたわけではない。<国家安全保障>上の諸課題も審議事項とされた。7名の限られた関係閣僚・官僚・財界関係の「有識者」に加えて、学界代表して唯一日本学術会議の会長が参画する同会議の議長を務めた首相の安倍晋三は、2016年9月の会議で、「国家安全保障に貢献する技術については、本会議と、防衛省等、関係官庁が連携して、その強化に一層とりくみたい……。」と抱負を語っている。また、「臨時議員」として参加することになった稲田朋美(防衛相)は、「防衛技術にも応用可能な先進的な民生技術を積極的に活用することが重要であり、本会議の司令塔機能のもと、関係省としてしっかりと連携(する。)」と発言していた。

 こうした基本的な施策は、国家と地方自治体や「民間業者」だけでなく、「研究開発法人及び大学等」(第6条1項)にも、具体的な「責務」として課されることになる。この「責務」は決して努力義務ではない。高等教育機関の大学には、すでに産学官連携の名のもとに、あるいは評価と財政誘導などにより、とくに大学の研究と教育、運営について「自主的な」改革の絶えざる実施を強いられてきた実績がある。もちろん、国立大学だけの問題ではないであろう。

 こうした科学・技術政策は、「我が国の経済社会の発展及び福祉の向上を図る」という安倍内閣が提示した法律改正の趣旨・「理由」とは、著しく齟齬をきたすことになる。そのため、このような特異な性格をもつ改正動向には、前記の「報告書」段階の日本学術会議をはじめとして、「大学フォーラム」や日本科学者会議などの団体や個人が、大きな懸念や立ち入った批判を提起するとともに、政府の制度設計の代替案として、学術全体の総合的な振興をはかる科学技術基本法とは別に、イノベーション推進のための法律の検討・策定案などが提起されている。こうした懸念や批判、提案などをふまえ、法改正のための審議経過を注視しなければならない。

 五輪延期を表明するや新型コロナウイルス蔓延を抑止するための決定的な時間を空費してしまったツケを噴出させてしまった安倍政権が、こうした法律改正案を上程すること自体が「不要不急」の所業というべきであろう。それは同時に、これまで〈人間の安全保障〉に一貫して背を向け、「人文知を軽んじた失政」の結果でもあろう。

 最後に、学界の倫理綱領や研究者倫理との関連でも論じなければならない重要な論点もあることを付言しておきたい。