〈専門性に立つ市民(教養人)〉の養成をさまたげるもの

〈専門性に立つ市民(教養人)〉の養成をさまたげるもの

執筆:教授 松浦勉

 前回は、21世紀にはいっても旧態依然として不当に軽視されている、高等教育機関の中心となる大学の教養教育のあり方について簡単に論及した。今回は、この教養教育と対立的に捉えられることが多い「専門教育」とその現状の特徴的な問題点に論及しよう。大きな枠組みとしては教育学と歴史学を専門とする私自身は、本学では、教養教育として「歴史」(日本の近現代史)と「哲学」、「職業倫理」などの講義を担当する一方で、教育実習の指導を含めて、教育科学の講義と演習を専門教育として行なっている。
 これまで日本の大学の教員は、一般に自身の「専門」の教育と研究に強い自負を持ってきた。これ自体に問題と歪みがあることについては、前回示唆した。しかし、個別の学問領域を超えて、果たして現状の専門教育の在り方と成果を自負できる大学人は、いまどれくらいいるであろうか。答えは否定的なものになろう。これは、必ずしも日本の大学に限ったことではない。アメリカは、この点でも「先進国」である。この夏、アメリカ海軍大学校教授のトム・ニコルズが2年前に上梓した成果の邦訳本が出版された。〈無知礼賛と民主主義〉という象徴的な副題をもつ、『専門知は、もういらないのか』(みすず書房)である。本書のテーマは、「専門知」と政治(民主主義)の関係なのであるが、著者は、一方の変数である専門知をめぐって、本書の第3章「高等教育―お客さまは神さまー」で、アメリカの大学教育の現状を批判的・分析的に考察し、描いている。
 もちろん、専門知も常に絶対的に正しい真理ではなく、その誤りや一面的な認識は、とくに学界では、自由な相互批判をとおして修正される。ところが、ソーシャルメディアの急激な発達と普及により、例えば不都合な事実をフェイク(fake:虚偽)と呼び、拡散させ、ネット検索に基づく主張と専門家の知見を、同じ土俵にのせる。大学でも、このように欺瞞的でアンフェアな事態が起こっている。「反知性主義」の一端がこれである。歴史修正主義もこの範疇にはいる。大学も、この反知性主義から自由ではない。
 つまり、不断の自主的な学習を通して獲得される専門的な知識を嫌悪する反知性主義が曼延し、批判的に思考する能力を欠落した学生は、ステークホールダー(「うるさい消費者」)として商品レビュウ―まがいの授業(教員)評価を行い、教員は、この学生の評価を過剰に意識して甘すぎる学生評価を行っている。これが著者の把握の大要である。
 「マージナル大学」といわれる地方の小規模大学の現状を勘案すると、このアメリカの状況は、「対岸の火事」どころではない。反知性主義には留保の余地もある。しかし、「学問に王道なし」の含意に無頓着・無定見な「学び」は、反知性主義の培養器となる。