豪雨被害と城館

豪雨被害と城館

 執筆:准教授 佐々木崇徳

 7月12日から13日にかけての豪雨によって、八戸市を流れる最大の河川馬淵川が氾濫し、南部町や五戸町、八戸市などで甚大な被害をもたらしました。幸い人的被害は出てはいないのですが、河川付近にあった田畑などは増水した川に飲み込まれてしまいました。

 馬淵川は岩手県岩手郡葛巻町を源流とする河川で、水量も多く度々氾濫していた記録も残されています。水の災害に対して、昔の人々がどのように向き合っていたのかを知る一つの手段として、史跡の解析が挙げられます。多くの城館が、縄文時代から平安時代までの長きにわたる小規模集落を中心に成立した物が多く見られます(特に北東北地域に多い)。長期間人々が居住していた場所ということであれば、種々の災害で甚大な被害を受け続ける場所は避けられているとも考えられます。こうした観点で見た場合、城館はその成立年代によって、災害耐性が異なる可能性があります。

 今回八戸市櫛引地域から南部町名川地域においていくつかの城館について増水直後から実踏調査を行いました。調査した櫛引城、法師岡館、高橋館、苫米地館、福田館、杉沢館、平館のうち、櫛引館ノ下地域と苫米地館(ふれあい公園)が浸水し、それ以外は無事だったようです。特に苫米地館に関しては、公園の中心部における岡を残して、周囲が水没してしまい。孤立状態になっていたことから、その成立と地形などの様々な面から調査を行っています。

写真1 水没した北の堀付近

写真2 水が引いた後の郭周辺

 苫米地館は越後から移住してきた上杉氏が南部家に仕官して居を構えた場所と言われていますが、それ以前の状況は未だわかっていません。標高が16mと比較的低地で、下河原という地名から推察すると低湿地だったのではないかとも思われます。そのため、中世に入ってから、周囲の開墾のために設置された拠点を元にした城館だったのかもしれません。また、館の北側の堀は元々馬淵川の旧河道だったとも言われており、馬淵川対岸の松ノ木地区とほぼ標高は一致していることから、元々はそちらと地続きだったために、水害で孤立することはなかったのかもしれません。なお、この地区には苫米地舘野遺跡(標高99m)や苫米地西山遺跡(標高71m)という高い場所で集落跡が見つかっており、旧来の人たちは主としてそちらに居住しており、現在の苫米地館跡付近はそうした集落ではない可能性が考えられます。

 一方で被害のなかった周囲の高橋館や福田館は岡の突端にあり、標高も25m以上の場所にあるため、そもそも苫米地館とは成り立ちが異なるとも思われ、これらは旧来の集落を元に発展したために、水害に比較的強いのではないかとも思われます。

図1 苫米地館周辺地図

図2 標高地図

 このように、昔の人々の営みの痕跡をつぶさに調べると、現代における災害対策を考える上での何らかのヒントが得られるのかもしれません。