「教養ある専門人」の育成から〈専門性に立つ市民(教養人)〉の育成へ

「教養ある専門人」の育成から〈専門性に立つ市民(教養人)〉の育成へ

執筆:教授 松浦勉

 私の「専門」は、教育学と歴史学である。そのため、ここでは、あらゆる「専門」と共通に関連する、高等教育(機関)の「教養」とその教育について私見を述べたい。

 この15年あまり、全学の3年生を対象とする工学倫理・技術者倫理の講義を担当してきた。いまは2クラス編成の「職業倫理」として、後半はオムニバスで開講されている。この講義のなかで私が眼目としたのは、たとえば「研究費の不正使用はしない」等の個々の具体的な職業倫理を、単に受講学生一人ひとりが、自己の将来的な、技術者や教員そのほかの専門的職業人としての固有の行為・行動規範として受容する必要を説くことではなかった。自主的な「厳しい不断の研究」活動と自己規律がもとめられる専門的職業人の候補生に相応する、教養教育としての職業倫理教育を構想・実践することが、講義の主要なテーマであった。つまり、高等教育=大学教育の2本柱の一つである教養教育と不断の自己教育をとおして、学生が自己の人生とのかかわりでたえず「専門」を問い直す基礎的力量を獲得するとともに、これを土台として基本的な職業倫理を、自主・独立の自立した市民としてのモラルを確立するのに不可欠な社会規範ないし信条として主体的に選びとることを励まし、支援することを、講義の狙いとしたのである。私の教育実践の成果は別にしも、それが現行の学校教育法第83条1項の大学教育の目的規定の趣旨でもある、と学生には伝えてきた。

 こうした私の大学教育実践に大きなヒントを与えてくれたのが、寺崎昌男という大学教育史家でもある先学の言葉である。もう20年くらい前のことである。立教大学の大学教育改革の成果を基礎として、たんなるアクセサリーとしての「教養ある専門人」としてではなく、〈専門性に立つ市民(教養人)〉を養成するのが大学教育の目的ではないか、と寺崎は主張した。教養(教育)が、専門(教育)の「付録」などではなく、とくに学生自身が将来的に、地域活動と社会的労働に参加する場面において、両者は相即不離の関係において、市民としての力量と専門的な職能を発揮することを保障することにより、社会を支え、そして、それがさらに自己をきたえあげていく主体的な営みとなる、と私は考えるのである。